| (1)地蔵掘の石地蔵 |
荒川区荒川3−1 |
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*元文5年(1740)10月、浄正寺13世寛誉和尚が願主となって、村内の安穏・五穀豊穣を祈って三河島村の村人が尽力で建立した。*昔は仙光院のあった旧荒川区役所(荒川2−19)の近くを荒川(隅田川)にそそいでいた地蔵掘のそばの古墳の上にあった。大正14年(1925)にここに移された。 |
| (2)袈裟塚耳無不動 |
荒川区3−22−10三峰神社境内 |
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*不動明王像は、真言宗宗仙光院(明治初年廃寺)の住職光彗が悪疾にかかり耳が落ち歩行もかなわぬ身となった。発起した光彗は自分の法衣を埋め袈裟塚とし、塚の上に宝暦2年(1752)安置したものである。台座は宝暦10年(1760)に、新吉原仲野町の元抱主らの寄進で建立されたもので、光彗の辞世「けさ塚も かやりのはてや もとの土」が刻まれ、「武蔵東叡山領参河島」・「王子へ1リ十丁」などが記され道標としても役立っていた。*明治29年(1896)明治通り北側からここに移された。 |
| (3)法界寺 |
荒川区荒川3−51−3 |
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*浄土宗長盛山道慶院法界寺。本尊は木造阿弥陀如来(延宝8歳9月3日当寺5代海誉」の銘がある。長保年間(999〜1004)に長盛居士が開山したと伝え江戸初期に明誉善海が中興。*参道正面に眼病に効験があるという長盛薬師を安置した薬師堂があろその脇に数多くの墓塔がある。*江戸後期から幕末まで将軍「鶴御成」の御膳所・小休所であった。*墓地には四斗樽形墓石の落語家墓石の落語家佃屋日魚の墓、寛永6年(1629)に建立さえた清水外記(清水家は三河島村の名主の一人)の墓などがある。うなぎや墓地(荒川2−18)出土の板碑二期がある。 |
| (4)浄正寺 |
荒川区荒川3−53−1 |
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*浄土宗清国山快楽院浄正寺(1503)に鏡誉和尚が開山した。寺宝として文安6年(1449)銘の板碑が保存されている。*境内には昭和37年(1962)5月3日におきた「国鉄三河島事故」の犠牲者を慰霊する聖観音像が祀られている。これは事故の際に遺体を本堂に安置したことから一周忌をきに供養塔を建立した。 |
| (5)宮地稲荷 |
荒川区荒川3−65−9 |
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*三河島稲荷とも言い祭神は倉稲魂命。天正7年(1597)の創建と伝えるが、今は失われたが弘治3年(1557)の棟札に「武蔵国豊島郡三河島総鎮守」とあったという。*天神・神明・疱瘡神など8社を合祀し下の病気によいとされ、とくに脚気に効験があり治癒すると「わらじ」を奉納したという。*天神社の神木の大けやきは樹齢650年といわれたが現在は切り株だけが残っている。*本殿右端にある「手水鉢」安永8年(1779)に新吉原から奉納された。 |
| (6)観音寺 |
荒川区荒川4−5−1 |
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*真言宗豊山派清滝山竜光院観音寺。天文元年(1532)に長遍僧都が創建したと伝え戦乱で荒廃したが文禄年間(1592〜96)宵真が再興したという。*江戸時代の三河島村は、たんぼや大小の沼地が点在し鶴の餌になる、どじょうや小魚が豊富だった。また、大根や清菜などの蔬菜栽培が盛んで特に「三河島菜」は土地の名産であった。*寛政10年(1798)11代将軍家斉が三河島方面に「鶴お成り」の際、この寺を御膳所に当てている。その時には名産の「三河島菜」を献上するならわしであった。*境内には正保元年(1644)建立の十三仏を彫った石塔や寛政年間(1789〜1801)建立の「六角氏」の墓がある。*寺周辺は村の中央に位置しており、上野戦争では寛永寺座主輪王寺宮一行が名主の松本家に身を寄せている。また、彰義隊の敗走者も三河島に多数逃げ込んで来たという。
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| (7)宮地の六地蔵 |
荒川区荒川4−10 |
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*江戸時代末期には下尾久・町屋から日本橋に通じる道が江戸道といわれて宮地を通っていた。その道筋にたっている。*堂内に子育て地蔵(蓮田の「子育て地蔵」ともいう)祀られている。その傍らに寛文12年(1672)銘の庚申塔や大日如来・地蔵菩薩馬頭観音などが安置されている。 |
| (8)密巌寺 |
荒川区荒川4−16−3 |
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*通称「三河島大師」という。真言宗豊山派瑞光山密巌院如意寺。豊島八十八カ所寺の第八十八ケ寺の第八三番札所。新四国八十八カ寺の四二番札所。*天文2年(1533)覚せんの開基と伝え、南北朝期の板碑があったが戦災で失った。覚せんの墓にはめこんだ天文9年(1540)銘の板碑が残されている。*境内には石造不動明王、講中による弘法大師碑がある。 |